阿久悠先生。
阿久先生がお亡くなりになって、早くも一年が過ぎた。
この一年を振り返り、私は様々なことを思い出すのです。
「秀実ちゃん、新しいシャンソンの時代をめざそうよ。日本のためのシャンソンやろうよ・・・」
そう約束をして下さった阿久先生とは、もうお逢いすることができない。
私がパリでのシャンソン修行を終え、帰国してまもなく、私は事務所の片隅の応接セットのテーブルで、阿久先生の直筆の原稿を手にした。あれは2001年のちょうど夏のことだった。
歌謡曲の黄金時代を築き上げた阿久先生が私に日本のためのシャンソンを書いて下さった。
その時期には先生はご病気であまり歌を書いていない時期だった。
書き下ろしていただいた詩の一番上にあった原稿が「懺悔」だった。私は恐ろしくなって手が震えた。
その日の晩、私は嬉しさと怖さが綯い交ぜになって、夜中に家を飛び出し、公園を走り回ったのを覚えている。
神様もお忙しくて 長い話しは聞いてくれない。
この言葉が冒頭に始まる歌詞は、なまじっかパリかぶれして、いい気になっていたちっちゃなシャンソン歌手に、姿勢を正すように、そして言葉を大事にしろ!との無言の叱咤だった。
その後何人かの作曲者により、その詩に曲がついた。
「懺悔」の作曲者には独特の作曲を手がける谷川賢作さんが手がけて下さった。
谷川賢作さんのお父さまは詩人の谷川俊太郎さん。
さすがは、ひとことひとことの言葉を大事に凄みのあるメロディーをつけて下さった。
ピアノ一本でスタジオで「懺悔」のデモテープをとり、ある会議室で私は阿久先生と出逢った。
緊張のあまり、私は「佐々木秀実と申します。宜しくお願いします。」とありきたりなご挨拶しかすることが出来なかった。
先生は「よろしく。」とだけ仰り、ラジカセから流れる私の歌を、目をつぶってエンディングの終わりまで黙ってそれを聴いていらした。
険しそうに感じる先生の顔に私は5分弱の曲が、まるでそれはそれは長い時間のように感じた。
曲が終わってから、30秒ほど無音の時間が過ぎただろうか。先生はゆっくりと目を開け、ニッコリと微笑み、「佐々木秀実・・・。いいじゃない」とひとこと仰った。
私は全身の身体から力が抜けたようになった。
それが阿久先生と私のはじめての出会いだった。
その後「ヌーベルシャンソン歌手の旗手」とキャッチコピーを背負い、私は「懺悔」という日本のためのシャンソンとして、世の中にデビューした。
しかし、それはヒットというにはあまりに遠いスタートだった。
なかなか芽の出ない、相変らずちっぽけな私でも、阿久先生は私のことをいつも心に留めていて下さった。
「エディット・ピアフと美空ひばり、どちらにも成り得る不思議な青年。」
阿久先生が仰ったその言葉を、私は自ら魔法のように信じている。
歌をいのちとして生きていきたい。私はずっとそれを毎日念じている。
今の音楽には「うた」に宿る言葉がない。デジタルにいきついてしまった今だからこそ、言葉の色褪せぬ「うた」で私は勝負がしたい。
阿久先生にはもうこの世ではお逢いできない。けれど、私は先生の遺して下さったうたの中で逢うことが出来る。いつの日も歌を大切に、言葉と向き合っていきたい。それが私が出来る、精一杯の先生に対しての思いである。
繰り返してしまうが、阿久先生がお亡くなりになって、もう一年になる。先生はどこで私をみていて下さっているのでしょうか。
私は今、とても先生に逢いたい。
とても逢いたい。
もう一度、微笑んだ先生の顔がどうしてもみたい。
そう思うと涙がとまらなくなってしまう。
明日歌うために今、私のすぐ手元にある「懺悔」の楽譜が滲んで見える。

